認知症でも、母は、母

1ヶ月ぶりの面会。

母「会いに来てくれたん。嬉しい・・・。」
母から、続けて、いつもの悲観的な(本質の部分)言葉が出そうになったのを私はすぐさま遮った。

私「そうやで」
母「亜由美やな」

とても嬉しかった。
母の手をさすりながら数秒、再会を味わう。
母の頬に涙がつたっている。

私は、母の頬を両手で包み込みながら、涙を拭った。
母の頬をそんな風に触ったのは、初めてだった。

母にたくさん触れた。

右手を自力で上げることができ亡くなった母。
畑仕事や折り紙を折ったり、していた母の右手
そのの中指は、ひどく浮腫んでいた。

母の手をさすりながら、会話を続けた。

指先が痺れていると母は訴える。

私「五木ひろしさんが、入院したんやて。」
母「・・・・」「はぎえちゃん(母の姉)が、ファンやったわ。」

(お互いにどんな名曲があったかを思い出せない。笑)

母「もう忘れてしもた。誰やった?」と、私の顔を見る。
・・・素直にショックだった。
でも、忘れてしまったことを理解している母。

母「いろんなことを忘れてしもた。」
寂しくもあり、少し安心した。
忘れてしまっていっていることを理解している。

私「亜由美やで。」
もう外は夏で、とても暑いことを伝えた。

私「もうじき、私の誕生日やねん。産んでくれてありがとうね。8月」
母「3日やな。」

いつものベルが鳴った。

スタッフさんの思いやりに触れた。
母と一緒に、施錠された扉の向こうから左手で振ってくれた母。
私は両手で大きく手を振った。
自分なりの寂しさのかき消し方、最高の笑顔で、両手でさようならをした。
母も両手で、懸命に手を振っていた。

場所がどこなのか
目の前の人が誰なのか
今の季節も分からなくなっている。

3年前の母との登壇。
ハーモニカで、琵琶湖就航歌を演奏した。
笑いとユーモアで良い空気感だったあの頃が懐かしい。

帰り道、実家に寄った。

特別養護老人ホームへの入所の手続きの進捗状況を確認した。
要介護5
入所選考(入所判定会議)が終わり、施設ケアマネさんによる面接が、病院で済まされているので、
正式に順番に入ることが出来たようで安心した。

認知症の方を自宅で介護することは、並大抵のことではない。
自分の人生を犠牲にするような介護のやり方は、私は賛成ではない。

色々な介護のカタチがあって、良いのだ。
国の制度などに頼ることも必要であるが、まずは、自分がどのように生きるのか。そして、親の介護や環境とどう折り合いをつけていくのか。

母の人生、54年前に私を産み、その3年後に妹を産んだ。
母の壮絶な人生は、妹が持病を持って産まれてきたことで大きく動き出した。

母は多くの人を支えて生きてきた分、多くの人にも支えられて生きてきただろう。
これからもまだまだ、支えられて生きることになる。
「私たち姉妹は母に産み、育てて頂いた感謝を忘れてはならない。」と、母の頬をなん度もつたう涙を私の両手でぬぐいながらそう改めて感じた。

人の老化は、自然なことである。

どう生き
どう老化を受け入れ
どう楽しんで生ききることが出来るのか。

近頃の私のテーマ。

私は、崔さんというYouTuberさんから《喜怒哀楽》という言葉を通じて刺激をもらった。
怒りや悲しみを手放し、喜んで、楽しく生きること。
祈りの力と心から湧き出る感謝のことを学んだ。

誰かのために祈っている時が、最高に幸せだと・・・

母は、私たち姉妹のために、何度、祈ってくれたのだろうか。
母らしさが残っているうちに沢山の思い出を作りたいと強く感じた1日だった。

母の存在は、すべての人にとって、大きな、大きなものなのです。

別れ際、母は、車椅子から立ちあがろうとする姿を見せてくれた。
嬉しかった。

母よ・・・
もう、自分の力では立つことも、歩くことも出来ないんだよ。

生きていてくれてありがとう。
私たちを産んでくれてありがとう。

そして、最後までお読み頂き、ありがとうございます。