亡き母のこと ありがとうの大切さ
母は、2026年11月14日に亡くなりました。
母は、12年前に認知症と診断されました。
母は、その数年前から自分の中で起こっている異変を感じていたと思います。
私は、子育てに必死で、母のことを気にかけることもなかったです。
親子とは。
所詮他人
でも、大切な存在なはずです。
私に、他者を慈しむ心があれば良かったのに。
私は、鬱のような症状に悩まされていた時期でもあり、環境責任、他者責任、自暴自棄になっていました。
自分のことも大っ嫌いだったし、その当時の置かれていた環境が悪い。こんな環境になったのも、私以外の人が悪い。その中でも、育てられた母に対する憎悪がとても大きかったのです。
自己肯定感の低い母のことを好きになることができませんでした。そのことに気づいてしまったのです。
自分自身のこともわからなくなり・・・そんな時に母の認知症の症状が進行していたのでしょう。
父の看取り期を一緒に過ごしたことが唯一の思い出です。
母との思い出の記憶はそんなに多くありません。
少しずつまた、公開することにしようと思います。
母への感謝が湧き上がってきたのは、父が亡くなり、数年が過ぎてからのことです。
パーキンソン病のような症状が現れ、自宅での入浴が危険になってきた頃でした。
妹は、要支援1のため、入浴介助ができません。
せめての私の親孝行の場面でした。
母の入浴に関するこだわり。
硬く絞ったタオルの端で耳の穴を拭き取ること。
足のアキレス腱から、土踏まずの部分をこすって、垢を出すこと。
この2つは、お決まりのルーティンでした。
この頃には、桶で自分の肩にお湯をかけることも出来ませんでした。洗面器にたまったお湯を両手で掬って、顔を洗うこともできませんでした。もちろんタオルを絞る力もありません。
もちろん、足の裏を自分で洗うこともできなくなっていました。
この状態を知ることで、涙が溢れてきたことを昨日のように覚えています。老いた母を受け入れる辛さ。
私が代わりに耳の穴を拭いたり、足の垢を擦り出したりしていました。
心から感謝が沸きあがりました。
この足で、懸命に畑仕事をしてくれていたこと。魚の目ができて痛くて、ガサガサの足の裏にも悩んでいた母。
その足裏は、少しましになっていたようでした。
この耳で、孫の話をしっかり聴いていてくれたこと。
ありがとう、お母さん。
入院日。3人で、最後のドライブ。
その日まで自力で歩いていたのに・・・
入院と同時に、車椅子生活になりました。胸が張り裂けそうだったことを今でも覚えています。
入院生活の後半では、自分の力で手や足を上げることすらできなくなっていました。
入院して1年もしない頃です。腕をあげようとすると、手が震え出し、足をあげようとすると足が震えていました。
脳内出血したことにより、母の手足はもう震えることもなくなりました。
脳の機能が脆弱になり、脳からの指令が行かなくなりました。
母の手は、色白く、綺麗な手になっていました。
母の足は、柔らかくて、裏も私よりスベスベしていました。
「良かったね。これで魚の目に悩まされずに歩けるね。」
私の涙腺は、崩壊でした。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
あんなに好きになれなかった母のことが、やっと愛おしく思えるようになりました。
本当にごめんなさい。
もっと、もっと、ありがとうを言えば良かった。
ありがとう、ごめんなさい。
何度も、何度も、病室で声をかけました。
面会時間に規制があり、遠方からの面会であることから多めには見ていただいてましたが。時間がいくらあっても足りません。
心から湧き出る感謝は、こんな状況にならないと湧き出てこないのだろうか。
私の今の暮らし方が、自然の摂理に沿っていないのだろうと、薄々感じています。
一度、立ち止まって、しっかりと自分自身と向き合う時間が必要なことはわかっているつもりですが。
このまま、走り続けるのは、良くないと、薄々はわかっています。
どうしたものか。
最後まで、読んで頂き感謝申し上げます。