認知症と共に生きた母と、

親が死んでから、
「もっと親孝行しておけばよかった。」

よく言われる言葉です。
やっぱりそうです。
母と病院で撮影した写真を1秒見ただけで、胸が苦しくなります。

認知症と共に生きた母の人生をそんなに多くは知らない私ですが、日常には認知症と共に生きている人たちは多く紛れています。
本人が気づいていないこともあるだろうし、苦しんでいる人、不安になっている人。
認知症と共に生きる人と一緒に暮らす家族の方も、日常に紛れ込んでいます。

日常は、淡々と過ぎていきます。
今は、今でしかありません。

人は、それぞれに多くの悩みを抱えています。
人は、それぞれに多くの不安を抱えています。

母は、一人で色々な感情を抱え込んでいたことは容易に予測できます。

母は、脳にとって良くないことをしていました。
クヨクヨしたり、我慢したりすること。
人を褒めすぎたり、人に優しくしすぎたり。
人に嫌われたくない。
私さえ我慢したら。
必要以上に未来を不安に考えたり。

うつ状態を経験した私だから言えることなのかも。
私はどれも当てはまりました。
母もそうでした。

母と日常的な会話をした記憶はそんなに多くありませんが、母と喧嘩をしたこともありませんでした。
親孝行をした記憶もありません。

主治医に勧められた日記には、私が離婚したことや女三人での生活からまた、私が離れることの寂しさが記録されていました。その日記を読み母のことを素晴らしいと感じたことは、その日記に日頃の妹に対する不満を一切記録していなかったことです。
私や私の友人には、妹との生活に関する愚痴を話していました。
そんなことは、一切書いていませんでした。

そのことを一切書かないという母の心情を思うと、認知症という定義が益々分からなくなります。
日常の生活に支障がでることは、誰かのサポートがあれば可能です。
しかし、相手を思いやる気持ちや自分自身の置かれている状況を理解して、日記として記録することができることは本当に素晴らしいことだと感心しました。

なのに・・・
認知症と診断されただけで、色々な制約やお節介をもらうことになります。
例えば、お金を管理されたり、介護保険制度を使うように勧められたり。

認知症と共に生きる人の姿を、色眼鏡なしで関わって欲しい。
目の前の人と私がどう違うのか。

診断されているかどうか。
人に対する思いやりや自分自身をありのままで表現できる姿に私はいつも感動しています。
若年性認知症と診断された方とLINEでのやり取りなども楽しく交流しています。
制度ではなく、その人のありのままで、良いと思います。
先日、とある会に参加したのですが、認知症の方の関わり方や評価などの発表の場は前半部分で話を聞くのが限界でした。私の目指している世界観とかけ離れているように感じたからです。

日常は、淡々と過ぎていきます。
でも、その中で何をどう感じるのか。
日常に紛れ込んでいる不安や困りごとだけでなく、喜びや感動も紛れ込んでいます。
様々な状況の人と共に心許せる場を構築したいと考えています。

今は、今でしかありません。
自分自身の天命、使命をしっかりと見定めて、明日終わるかもしれない命を十分に生かせる私でありたいと思います。

節分、春分と節目があります。
しっかり、整えて毎日を過ごしたいものです。