認知症と共に生きる母

母のことを記すのは、とても久しぶりな感じがします。

令和7年10月9日夕食が進まなかった母
突然痙攣、嘔吐したそうです。
看護師の懸命なケアで、嘔吐したもので窒息することもなく一命を取り留めました。

タイミングよく、主治医が当直。
妹と私は、すぐに敦賀市へ向かいました。

翌日のCTの結果、母は、脳内出血であることが判明しました。

30歳台の方が、同じ量の出血があった場合でも即死になるほどの大きな破裂でした。
右側の脳が機能しなくなりました。
左側の脳も脆弱な状態で、いつ何時・・・

3日、7日が山といわれました。
面会の誓約が外され、「会わせてあげたい方にお声掛けください。」

覚悟をしました。

もうそろそろかな。
認知症の終末期と、予感していたので2週間に1回のペースで面会をしていた矢先のことでした。
瞬きができない期間もあり、目は乾燥を防ぐためにガーゼが充てられました。


母のそばにいる時はそのガーゼを外して、声をかけました。

寝たきりの母
何もかも、自分の力で動かすことができません。

この前、面会した時はあれだけ震えていた手も震えなくなり
上がらなかったては、私の力で軽く上がってしまう。

母の意思ではもう、何も動かすことができない身体になってしまった。

私は、母の手や足をさすることしかできず、「ごめんね。」「もっとそばに。」後悔ばかり。

母にこんなに多く触れたのは初めてでした。
幼少の頃、母に甘えた記憶がなく、私は父との触れ合いの方が多かったように記憶しています。
病弱な妹の看病、入院生活で母と一緒にいることは少なかったのでしょう。

記憶がある頃には、母のことを少し好きでない自分を理解していました。
お金のことや、父や祖母の悪口を聞かされていた私は、母のことを心から尊敬できないでいました。
母に抱きしめられた記憶もありません。
記憶の中から消しているのかもしれませんが・・・

母の手や足に触れながら、母の苦悩や辛さが伝わってきました。
幼少期のころは、嫌で嫌で仕方なかった愚痴
鬱になった時に一番恨んだことでした。

「自己肯定感の低い母に育てられた私は、なんて不幸なんでしよう。」
そんな風に思ったことも懺悔しました。

母は、耐えて、耐えて。
自分のことは後回しの人でした。
誰かのために
子どものために
いっぱい我慢をしてきた人生だったのでしょう。

こんな状態の母になってしまってからでは遅いのに。
ありがとう。
ごめんなさい。

その言葉以外は、何も出てこない。

母がこのような状態になってから、怒涛のような毎日です。
心のざわつきを抑えながら、淡々と仕事をすることで気を紛らわせました。
身体は、正直ですね。

思考と行動が一致しなくなったり
目眩があったり。

それでも、時間を確保して。母に会いに行きました。
母の面会の帰路で、たくさんの涙を流すことで心を少し落ち着けることができました。

母は、旅立ちのタイミングをはかっているのでしょうか。

人間の生と死は、神秘的です。
母の旅立ちにどんなドラマが待っているのか。

母と私の記録として。
最後まで、読んで頂きありがとうございました。