共生する
2月18日(日)の奈良県生駒市の共生推進サミット(プレイベント)にオンラインで参加しました。
令和4年に開催された「第4回地域共生社会推進全国サミットinつるが」でこのサミットの存在を知っていました。
今年も、近隣県の奈良県で開催されるので参加する予定です。
このプレイベントでは、「孤独・孤立~ゆるいつながりでもええやん~」オンライン生配信。
社会構造などの変化に伴い、自治会の繋がりやご近所さんとの繋がりが希薄になっています。
孤独は” 感じる ” もので、人それぞれです。孤立は出来るだけしない方がいいと私は思います。
何らかの方法で社会(世間)との繋がりを保つことが心豊かに生きることができると考えるからです。
〈あなた自身が安心できる場所は
ありますか?〉
私は、
・今住んでいるところ
・musubiの畑
誰しもに起こりうること。孤立、認知症は、長生きすれば誰にでも起こります。
予防することはできないと思います。
備えることや考え方やあり方を変えることはできると思います。
国の政策は、「財政で賄えない部分は、地域住民の力を借りて、共生しましよう。」と。
しかし、ボランティアで補える部分と、そうでない部分があると思います。
「ボランティア=無償」には、色々な危険が潜んでいると考えるからです。
共生とボランティアが混同しているような気がしてなりません。
草の根的な活動は必要であるが、
経済が循環することも大変重要だと、私は考えています。
座談会で印象的だったのが、「SNS以上、しがらみ未満」
私たちも認知症カフェを開催していますが、どうしても場所ができると、常連客ができてできて「しがらみっぽく」なりがちです。
開催する際のこだわりは、利用する人、サポートする人と呼ばず、誰もが参加者という位置付けにすることが共生社会の一つのあり方だと考えています。
役割を明確にしない、区別しないことも心がけています。
できる人ができることをする。
そして、違いを認め合う。
これこそ、” 共生 ” ではないでしょうか?
介護保険制度の下では、
『支援する側』『される側』
お客様とおもてなしする側となり、
” 共生 ” という思考にはなりません。
このイベントを終えた〈田中の所感〉としては、
・大津市長を巻き込んで、プラットフォームづくりができないだろうか
・孤独や孤立は、人それぞれのあり方や考え方によるのではないだろうか
・当事者たち自身が本当に支援して欲しいのかどうかを見極め、本人の入ってほしくない部分まで介入しないこと(これが、とても難しい)
・本当に孤立している人は、そもそもこのような場所へ参加しない。
繋がりは、おむすびをむすぶようにそっと、柔らかく
水を救うように丁寧に関わる
そんなことを改めて感じた次第です。
絵を描くことがとても苦手で。
これは、一生懸命に描いた
「自転車」です。笑