ディープな自己紹介

昨日のブログで、
” 感じのイイ人 ” について投稿しました。
今日は、その続編になります。
濃いめの自己紹介になりそうです。
興味ある方は、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。

離婚と鬱
私は、長男19歳、長女17歳、
次男15歳の夏に離婚しました。
旧姓は増田ですが、
田中のままで暮らしています。
(田中亜由美シンメトリーで美しい)

長女の体調不良や妊娠、結婚・出産を機に家族との距離感が、離婚前の泥沼が嘘のように凄く良い空気感いなっています。

私は10年ぐらい鬱のような状態で、保育園と高齢者デイサービスの経営、母親、妻、嫁を演じていました。
病院を受診する気力すらもなく、
この当時の記憶はほぼありません。
(お金もなかったです。笑)

(今から、15年ほど前 37歳ごろ)

娘が小学3年生のゴールデンウィーク明けから学校へ行けなくなりました。不登校
学校を行かない選択をしたのです。

当時の私の価値観は、『学校へ行かなければ、人生終わる。』でした。
私の鬱の症状は、どんどん強くなりました。
パニック、発狂、自傷行為など、今振り返るとあの頃は、私が別人になるときもありました。
元旦那とコミニュケーションも更に図れなくなりました。(結婚3年目から離婚するかもという予感的中)
娘の不登校を機に発達障害について、知ることになり、離婚間際に元旦那さんの本音を知ることになりました。
もう、この頃には手遅れで、関係性を修復することは不可能でした。

個性として認め合う。
発達障害は、個性です
勿論、私も発達障害です。” 得意、不得意があってこそ、魅力的 ” だと思います。
今では、《認知症も個性の一つとして捉えましょう。》なんて、高度なことを求めるんだ〜。
健常者と定義される人の個性も認められない世の中、お互いを認め合うことの難しさ。
(ぶっ飛んでることをお偉いさんは、仰るな〜と関心しています。)

鬱の私が学校へ行かない選択をした娘へ伝えたこと
①口角を上げる。
②人の話は相手の目を見て話す。
③明るい不登校になろう。

” 感じのイイ人 ” であって欲しいとの願いだったのでしょう。
私は、今では学校へ行くことだけが全てでない。
(むしろ行かない方が良い。笑)

鬱を服薬せずに克服できたのは、人との出会いや自分自身が変容したことだと思います。
(今では服薬しなかったおかげで今があると自負しています。服薬していたらこの世にいなかった可能性大)

「ねばならない」
「他者責任」
「環境責任」も
随分としてきました。

現実の世界は、自分自身がつくっているということが腑に落ちると
” 自分の心が楽に ” なります。
氣の領域を知ることで、” 日本人らしさ “、” 日本人に生まれて良かった “とつづくづく感じています。
虫の音色を感じたり、植物と話せたりできるのも日本人だからですからね。笑

私が農業をするのも、
認知症や看取り、鬱を経験したのも
この氣の領域を知るための通過点だったのでしょう。

感じのイイ人と巡り会えますように。
今日も、楽しんで生きましょう!