迷惑のたらい回し
「あんたのとこで、1週間ほど面倒見てもらえへんやろか?」電話の向こうで泣きじゃくる母の声。
い
や
だ。
わたし、冷血なのかもしれない。
妹ばかりに迷惑をかけているから、あなたに面倒を見て欲しい。
私「ベットがないし、無理だわ。」
母「普通のでいいねん。」
(それがないちゅーねん!)
一人でいることができない不安。
それだけだろうか?
この言葉は、本心ではないと直感でそう感じた。
「親の介護が、最後で
最大の親孝行。」
それは、大きな誤解。不幸の始まりだ。
私は、息子や娘にそのような価値観で介護してほしいだろうか。
私はいやだ。
介護現場で介護福祉士として働いていた元旦那さんは、「老人ホームに入って、若い介護士のおねーちゃんにお尻を拭いてもらう〜。」
現実的かどうかは、別として、子どもたちに自分自身の介護を依存していないところが好きだ。
私は、自分の生活パターンを崩して、親の介護をするつもりはない。
私にはわたしの生活がある。
母をここで宿泊付きで介護することは、同居人に迷惑をかけることになる。迷惑のたらい回しだ。いや、私自身が不機嫌になり、同居人に迷惑をかける。
「不健康寿命」が伸びすぎている。ピンピンコロリは、そう簡単にはなれない。
(日本は、特にそう。)
だからこそ、” 死ぬことをデザインする ” 必要がある。
誰もがこの世に産まれた瞬間から死に向かって生きている。
死と向き合うことは、” どう生きるか. ” ということに繋がる。
父の事故、母の認知症、妹との介護観の違い、離婚、鬱を経験したこと、今までに巡り合った人々とのおかげで、今の私の生き方、あり方がある。私には、実現したいことがある。
私は、” 自分軸 ” で生きてこなかったことで、自分自身がとても苦しんでいたことに気がついた。
《誰かのために》と、他人軸で生きてきた母。
その母に育てられた私も” 他人軸 ” だった。妹もそう。(戦後の日本の教育がそうさせていた。)
どうしたものか。
キーボードを打つ手が止まらない。
魂からの叫びなのだろう。
母は、ネガティブな思考。自己肯定感の低さは、周りの者も辛い。自己肯定感の低さと謙遜は、全く別物である。75年もその思考で生きてきてたから、もう変えようがない。
認知症の症状があり、鬱。パーキンソン病。自分自身でできることも少なくなってきた。筋トレじゃない。
母に寄り添う心のケア。
母の心が穏やかになるために。
母が、発する言葉の奥にある本心。
「私が病弱に産んだせいで、
可哀想なことをした。私が悪い。」
「私の世話をさせて申し訳ない。」
湯船から上がった母が、懺悔した。
だから、私に面倒を見てほしいと。
め
い
わ
く。
「しゃーないやん。」軽すぎるか。
でも、仕方ないこと。
そう神様が決めたことだから。
わたしは、冷血ではない。
課題分離しているのです。
血の繋がった親であっても、それは私の課題ではない。
認知症の症状のある母には、
酷なのかもしれないが。
やぱり、私の課題ではない。
妹も自分を律しようとしている。
「おかんにひっぱられたらあかんのは分かっている。」
しかし、親の年金で生活することの悪の循環。
持家、畑があることで、ギリギリの生活をしている。
この世の中、何かが違う。違う。
全ての命に感謝して、
今この一瞬を笑顔で暮らし続けることが出来ますように。
苦しむために生きているのではない。
遊んで、なんぼ。
楽しんで、なんぼ。
みんなで、阿保になりましょ!
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。