感情の大切さ

1ヶ月ぶりの面会です。
母の感情はもう・・・
動かなくなっていた。
発語もなくなっていた。
・・・失語症。
面会日の前日、私はいつも少しだけ億劫になる。
どんな風に落ちているのか。
また、同じ話の繰り返しか。
会いたくないな・・・って。
白髪の母が、介護職員さんの車椅子介助で私の方へ向かってきた。
いつもの常套句から始まると構えていた私。
「どうして、こんなところに・・・」
「誰も友達いない。」
「何で来てくれたんや?」
・・・常套句は聞けなかった。
いつもの通り、マスクをずらして
「私やで・・・」
「・・・」
母の表情は変わらず、無言の時間が流れた。
私のそばには、いつものストップウォッチが時を刻んでいる。
私の頬を涙がつたう。
母のための用意したポケットティッシュ。
全部私が使う。笑
母のひ孫の写真を見せた。
大好きだった孫娘(私の娘)の顔を忘れてしまった。
母の記憶は真っ白になったの?
母の感情も真っ白になったの?
母の魂はどこへ行ったの?
信頼するとある銀行の支店長さんの言葉が脳裏をよぎった。
「人は、死という恐れから逃れるために認知症になるではないかと思う。」と。
母は、死に向かっているのか。
母の記憶から、私たちが消えていく寂しさが込み上げてきた。
母の癒しだったハーモニカ
母が大好きだったハーモニカ
孫たちに演奏していたご自慢のハーモニカ
母と一緒にその動画を観た。
かすかに母は、身体でリズムをとっていた。
3秒後、母は、静止していた。
演奏している人が誰なのかも、何を演奏しているのかも、母は理解できていなかった。
きっと感情が動くだろうと期待した私。
驚きと寂しさが入り混じった。
あるだけの動画を観せた。
・・・・・
「これ誰や?しゅんちゃんか?」
自分の顔も忘れてしまった母
1日でも早く〈人らしい暮らし〉に戻してやりたい。
どうして、入院が決まった時、私は入所の手続きを進めなかったのか。
悔やんでも、その時の、あの状況があったから仕方ない。
やはり、病院は病院。
生活じゃないから、こうなるのかな。
「認知症になっても、その人らしく生きることができる社会にしたい。」
そんなことを掲げて活動しているのに私は母に何もしてやれていない。
ココロが痛い。
認知症と共に生きる人の〈暮らし〉〈らしく生きる〉〈命の仕舞い〉に関して、改めて向き合いたいと思う。
感情があることが当たり前の私たち
その感情が動くことで、〈生きている〉ことを実感できる。
ワクワク
ドキドキ
めそめそ・・・
色んな感情を味わいながら生きることができる人間って、素晴らしい生き物だと思う。
残りの人生
ポジティブな感情に包まれながら暮らしていきたいね。
感情を味わうためには、心の余白が必要だと考えています。
今日も最後まで読んで頂きありがとうございます。
素敵な1日をお過ごしください。